Story

このストーリーはノンフィクションです。
多方面にご迷惑等かからないよう、企業名、個人名は伏せております。
コーチの名前はプロフィールに過去のコーチが書いてありますので、気になる方はそちらもご参照ください。

負けず嫌いな幼少期

1990年愛知県一宮市に生を受け、小学2年生よりテニスを始める。
小学6年生までは、テニスの他に水泳、お習字、ピアノなどの習い事をしていて、小学6年生でテニス一筋にする。

プロテニスプレイヤーを意識し始めたのは、小学4年生の時。
父に言われた『プロになるのか?遊びでやるのか?』の質問に対し父が喜ぶと思い『プロになる!』と宣言し、父からも『それならお父さんもこれから厳しくなるよ。』という逆宣言を受け、スパルタ特訓の日々が始まる。

小学生の頃の記憶を遡ると、根っからの負けず嫌いで、鬼ごっこで捕まって号泣するくらいの負けず嫌いだった。
小学6年生で全国小学生大会の全国大会に出場。
『やっと全国か。。』と思った記憶がある。

コンソレの女王の異名

中学生の頃の記憶は凄まじい程に何もなく、毎日学校には通っていたものの、反抗期も真っ只中で、ただ練習と学校を行き来していたのが記憶のほとんど。

もう一つ覚えていることと言えば、小学生の頃からコンソレーション(敗者復活戦)での優勝が多く、誰につけられたかコンソレの女王と呼ばれるようになる。

人生で初めて選ばれたワールドジュニアU13日本代表も、RSK大会でコンソレ優勝し、選考会で勝ち抜いたから選ばれたのであって、元はコンソレから始まっている。

負けず嫌いが代名詞の私はもちろんこの異名は当時全く嬉しくなく、いつか本戦で優勝してやると思うようになる。

学業との両立

高校生になり地元の高校に入学する。
理由は家から近くテニスクラブに通えるから。

全日制の為、大会がない限りは毎日学校へ通い、テストも大会の合間に学校に行き毎回受け、赤点と戦う3年間を送る。
大会には海外であれ、課題と参考書を持参して勉強していた。
ちなみに自分の保身の為追記すると、3年生の最後のテストはクラスで4位だった。(やれば出来る←違う)

テニスでは高校1年生でようやく念願の初全国優勝をする。(中牟田杯)
全国室内選抜も高校1年生で優勝する。
が、インターハイや全日本ジュニアなど大きい全国大会では成績が出なかった。

高校3年生ではグランドスラムジュニア全てに出場するものの目立った成績が出ず、プロになっても成功出来ないと思ってしまい進路を悩むようになる。

テニスをやめる、プロになってスペイン留学する、テニスで大学に行くの選択肢で悩み、悩みすぎて軽い突発性難聴になる。

悩んだ挙句、杉山愛さんのお母様の芙沙子さんと神尾米さん、雉子牟田雅子さんにご相談させていただく機会をいただき、プロになることを決意する。

順調な滑り出し

プロになり岐阜を拠点に活動を始める。
初年度にはITF下部サーキットにて準優勝、翌年も優勝する。
プロ3年目20歳の頃にはUS OPEN予選まであと少しのランキングまで上がり(250位くらい)、順調な滑り出しを見せる。

初年度からWTAツアーの大会に挑戦し、その頃からWTAを主戦場に戦える選手になることを意識する。
島津全日本室内選手権二連覇し、スポンサー様にもついてもらえるなど、当時は未来が明るく感じられた。

原因不明の体調不良と契約終了

2011年夏頃より原因不明の体調不良に見舞われ、練習が出来なかったり、1日ベットから起き上がれないような日が続く。
試合になんとか行っても、試合開始ギリギリまで寝てアップ無しで試合をして、時には棄権する、ということが何回も起きるようになる。

当時ランキングが落ちるのが何よりも怖く、休息するという決断が下せなかった為無理して試合に行き怪我することもしばしばあった。

そんな折、2013年23歳梅雨の時期に当時のスポンサー様からある出来事を理由に契約終了を言い渡され、無一文になる。
また年明けには当時の練習拠点も使用不可になり、近くの緑道公園が練習拠点となる。(2014年〜2017年まで)

その頃には体調は回復の兆しを見せていたのでスポンサー様が見つかるまで、時にはJOP(国内大会)の大会に出場し、その賞金を元手にITFの国内大会に出場するようになる。
カードのリボ払いへもこの頃から付けるようになる。(自身のYouTube参照)

2015年、かなり引退を意識したが、年末の$100000にて予選からベスト8に入り、兆しが見えたことで自分の気持ちも少し立て直すことが出来、現役続行を決意する。

緑道公園での出会い

2015年夏頃、緑道公園である企業の社長様と奇跡的な出会いをし、2016年年始より所属スポンサー契約をしていただけることになる。
いつも通り練習しているところに、ある親子が緑道公園にやってきて、当時の自分のコーチはプライベートレッスン生を探していた為、手作りのパンフレットをお父様にお渡しすると、明日からお願いしたいと言われ、娘さんのプライベートレッスンをすることに。
何回かお会いしてお話しさせていただくと、企業の社長様ということを知るものの、スポンサー契約関係のお話しをするのはとても申し訳なく思ってしまい半年が過ぎる。

ある日社長様から遠征や金銭的な状況など聞いてくださったことをきっかけに状況をお話させていただき、最初はパッチ契約で、とのお話でそれだけでもとても有難かったが、私の資料に目を通した社長様が
『この遠征に必要な資金額を見ると、僕がパッチ契約した所で沢山大会に行けるようになる訳ではないんだね。。』
と言ってくださり、年明けより所属契約していただけることに。

その後、コーチの職の関係で練習拠点をアメリカのノースカロライナ州に移す。
2016年中頃よりアメリカを支点に遠征を回り、ランキングは2017年にはUS OPEN予選3番アウトになるまで上がり(650位→250位)もう少しでグランドスラム予選出場出来る所まで行くものの、膝の怪我により怪我と付き合いながらしばらく遠征へ行くようになる。


新たな旅立ち

2017年より新しい土地と新たな環境でテニスをしたいという気持ちが大きくなる。
2017年秋にそれまで9年お世話になったコーチの元を離れる。

練習拠点を東京に移し、2017年の全日本選手権で初めてのベスト8進出をし、そのまま準優勝する。
翌年2018年8月で当時の所属スポンサー様との契約が終了した為、当時とてもお世話になったコーチの計らいで当時現役引退する選手と入れ替わりで橋本総業ホールディングス様にお世話になることとなる。

2019年日本リーグではチーム優勝二連覇に貢献し、最高殊勲選手賞MVPを受賞する。

30歳を超え全日本で初優勝

2019年9月、神奈川県の荏原SSCに練習拠点を変える。
そして2ヶ月後2度目の全日本選手権準優勝する。

全日本翌週からの海外遠征にて、練習中に11月右足首靭帯を2本部分断裂する捻挫をする。
リハビリとトレーニングを繰り返し、捻挫をしてから3ヶ月後の2020年2月の終わりにオーストラリア$25000で優勝する。
ここからランキングアップを図ろうとした所で、コロナ感染症によりツアー停止になる。

これから、という所でこれまでも壁にぶち当たってきた私も、今回ばかりは精神的にかなり堪える。
そんな中現在のコーチである辻雄馬コーチとの話し合いでモチベーションが保たれ年終わりには全日本選手権初優勝し、戦後最年長優勝者となる。

2021年4月には国別対抗戦ビリージーンキングカップ(旧フェドカップ)日本代表に異例のナショナルチーム外から選抜される。

遅咲きではない。これが私のタイミング。

吉瀬美智子さんが書かれた本の中で私の好きなフレーズである。

これまで30歳を超えて初めてグランドスラムに出場した選手は日本人選手ではいないと思っている。

誰もやったことがないことをやる、ということはとても勇気がいるし
また無理だと思われることももちろん理解している。

でも私は誰もがやったことがないことを成し遂げることがとても好きだ。
若くして成績を伸ばす選手がフューチャーされる中
30歳過ぎてから成績を出す選手がいてもおかしくないと思っている。

そしてそんな私の挑戦を応援してくださるスポンサー企業様がいて
コーチ、トレーナー、家族、支えてくれる人達がいて
そしてファンの皆さんがいる。

豆腐メンタルの私が挑戦し続けられるのは間違いなくこういった方達の存在のお陰様である。

山の頂点を目指し、沢山の人に追い抜かされ、若くして頂点に到達する人がいる中
自分では頂点には辿り着けないと、何度も何度も思った。

ただ山の頂点に最終的に辿り着けば
若かろうが年取ってようが、早かろうが遅かろうが関係ない。

私は絶対に自分が思う山の頂点に立つ。



秋田史帆
Top